大変お待たせいたしました!!公演直前になってしまいましたが…ようやく、くわしいあらすじ書きました!(金子)
今回のテーマは、鹿谷事件から、鬼界ヶ島での俊寛の最期まで
『平家物語』の冒頭、「祇園精舎」では、諸行無常・盛者必衰の理からのがれることは、誰にもできないと説いています。奢れるものというのは平清盛だけではありません。今回のプログラムは、後白河法皇の「おごれる」側近たちが、絶大な権力を手にした平清盛を倒そうと企てて、その身を滅ぼした物語です。
たくさん人物が出て来て、うーんこんがらがっちゃいそう…と思われた方、安心してください。
一言で言えば、
クーデター計画に加わった俊寛が、鬼界ヶ島に流されて、赦されずに島に置いていかれた話
以上です。
はい、あとは忘れていただいても大丈夫。(笑)
①前半は、鹿谷事件の話。主に、首謀者の藤原成親(なりちか)と計画を暴露した多田行綱(ゆきつな)と、清盛(入道相国)がでてきます。俊寛は名前ばかりでほとんど登場しませんので寝ちゃっても大丈夫。
②後半は、鬼界ヶ島にながされた俊寛が置いていかれて亡くなるまでの話。ここから大事。俊寛と成親の息子成経(なりつね)と召使いの童有王(ありおう)が登場します。
●知っておこう!これまでの流れ●(ややこしかったらとばしてもOK)
1)院近臣と呼ばれる人たち
白河院による院政開始(1086年)により、院(上皇)は国政の主導権を握りました。院近臣となって働いたのは、受領階級の中流貴族たち。この人たちの家は、それ以前の摂関政治ではがんばって四位、五位になることが目標でした。しかし、受領職で蓄えた潤沢な資金を使って、院の手足となって働き、三位以上の公卿に出世する人もあらわれます。たとえば、鹿谷事件の首謀者の一人、藤原成親の父(家成)は鳥羽院に仕えて中納言になり、成親も父を超えて大納言になりました。
一方、武士も軍事力によって院に仕えました。平清盛の祖父、正盛は白河院に仕えて受領を歴任。父忠盛は白河、鳥羽両院に仕え、得長寿院を造営した功によって、内裏の昇殿を許されるまでに昇進しました。(貴族たちが、忠盛の急激な昇進と経済力をねたんで、豊明節会で闇討ちを企てた一件は、『平家物語』巻一、殿上闇討に詳しい。)
2)保元の乱
保元元(1156)年、鳥羽院の逝去がきっかけとなって保元の乱が起きました。そのころ皇室も摂関家も兄弟間の対立がひどく(実のところ騒ぎのきっかけを作ったのはどちらも父親でしたが)、結果だけを述べると、後白河天皇と藤原忠通方に平清盛、源義朝が加勢し、崇徳院と藤原頼長方に平忠正、源為義が加勢して戦いがおこなわれ、後者が敗れて、崇徳院が讃岐国に配流され(それで讃岐院と呼ばれた)、藤原頼長(宇治悪左府)は流れ矢に当たって死にました。その後、讃岐院と宇治悪左府は怨霊となってしばしば平家一門を悩ませます。
3)平家の栄華
平清盛の官位昇進はめざましく、平治の乱(1159年)の翌年には参議に就任、武家として初の公卿となります。妻時子の妹、滋子を後白河天皇に入内させ、滋子が生んだ皇子 高倉天皇に娘の徳子を入内させました。また、娘を摂関家の嫡男、藤原基実の正室にするなど、栄華を極めた平家一門は、朝廷の官位を独占、多くの知行国や荘園を手にいれます。後白河法皇や院近臣たちの不満は日ごとに膨らんでいったのです。
さあ、ここから今回ご覧いただくお話のあらすじです!
鹿谷(ししのたに)
平家一門が繁栄を極めてブイブイいわせている頃のお話です。
嘉応三年(1171)、高倉天皇(主上)が元服、後白河法皇と女院へご挨拶に行きました。入道相国(清盛)の娘の徳子が女御となり入内しました。
そのころ(といっても6年後の安元三年・1177年のことですが)、妙音院の太政大臣(藤原師長)が「左大将」を辞職しました。貴族の中でもナンバー1、2と言われる徳大寺の大納言実定卿、花山院の中納言兼雅卿のほか、新大納言(藤原)成親卿もその職を切に所望しました。ところがどっこい、このころの官職の任命権を握っているのは平家だったので、嫡男の小松殿(重盛)が右大将から左大将に移り、次男の宗盛が何人もの公卿を飛び越えて右大将になりました。成親の怒りはおさまりません(←いや、成親にとっても過分の望みなんですが)。「徳大寺や花山院はともかく、平家の次男に越えられたのは許せん!これも平家の思うのままゆえ。なんとしても平家を滅ぼしてやる!」と恐ろしいことを口にします。
父は中納言にも関わらず、成親は大納言の地位にまで昇って、大国もたくさんいただいて、一族も栄えているというのに、何が不足でそのようなことを考えるようになったのか。天魔の所為としか思えない(=ぜんぜん分からん、説明できん)。しかも平治の乱には、敗者の信頼側について死罪になるところを、小松殿が取りなして命びろいしたのです。その恩を忘れて、戦いの準備に余念がありませんでした。
東山の麓、鹿谷は背後に険しい山がそびえる天然の要塞。そこに法勝寺執行の俊寛僧都の山荘がありました。成親、西光、俊寛、康頼らの側近や北面の武士たちが、しばしば酒宴を開いて、打倒平家の密議を重ねていました。ある時、後白河法皇もおいでになりました。信西の息子の静賢法印がお供です。打倒平家の計画を聞かされた静賢法印は「大勢が聞いていて、今にも漏れたら大変なことになりますよ!」と大騒ぎ。成親は顔色が変ってさっと立ち上がりましたが、瓶子を倒してしまいました。法皇が「あれはどういうことか」と仰せになると、成親はとっさに「瓶子(平氏)がふざけて倒れました」と言いました。これが法皇に大ウケ。(それをお題に)みんなに猿楽をせよと命じます。申楽は物真似とか茶番のような即興芸です。
康頼「あんまり瓶子(平氏)が多いので酔ってしまいました」
俊寛「さてそれをどうしますかな?」
西光「首をとるに越したことはない」
セレブ宴会でエゲツない悪ふざけ………週刊誌にすっぱ抜かれたら大変です!
▶︎この間のできごと
山門(比叡山)の大衆が、神輿を担いで、京に強訴に来た。後白河法皇は報復として、座主の明雲の流罪を命じるが、山門の大衆は明雲の身柄を奪還する。
西光被斬(さいこうきられ)、ほか
(この部分は、鹿谷事件の経緯をお伝えするために、「西光被斬」などいくつかの章段から抜粋構成しました。)
治承元年(1177)、成親は、山門の騒動の間は平家打倒の動きを押さえていました。多田蔵人行綱は、鹿谷の謀議にも加わっていて、成親から挙兵するよう頼まれていましたが、どうもこのクーデターはうまくいくと思えなかったので、弓袋用に(成親から)送られた白布を家臣たちの着物に縫わせて着せつつ、目をシバシバさせながら「つまらないことに加担してしまった。もしこれが漏れたら、行綱がまず殺されるだろう。人から漏れる前に返り忠して生きながらえよう」と、同年5月29日の夜更けに、入道相国(清盛)の邸に出かけて計画をすべて暴露します。
行綱「最近、院の方々が軍兵を準備しているのをどうお聞きになっていますか?」
入道「それは比叡山を攻めるためと聞いている」
行綱「いえいえ!そうではなくて、平家一門を攻めるためですよ!」
入道「それを法皇もご存知なのか?」
行綱「もちろんです。成親卿も院宣といって兵を集めています。」
と行綱は、鹿谷山荘での関係者の様子を言い散らして帰りました。
入道相国は大いに驚き、謀反の関係者を捕らえよと下知します。西光は処刑され、成親は流罪された後、備前備中の境の庭瀬の郷で殺されました。俊寛、平判官康頼と、成親の息子の丹波少将成経は、鬼界ヶ島に流されました。
赦文(ゆるしぶみ)
一年後の治承二年正月7日、彗星が東方の空に現れました。なにやら不吉な予感…。
清盛の娘中宮徳子が御悩(ごのう=病気)ということで、あらゆる祈祷が捧げられましたが、病気ではなく帝の子をご懐妊したのでした。こりゃめでたいと平家の人々は、まるでもう皇子がご誕生したかのように喜んでいます。ところが、中宮は日に日に体調が悪くなります。これにつけこんで、手ごわい物の怪どもが中宮に取りつきました。物の怪の正体は、讃岐院の霊、宇治悪左府の憶念、成親の死霊、西光の悪霊、鬼界ヶ島の流人どもの生霊などでした。
小松殿は、父の入道相国(清盛)に、成親の死霊をなだめるには、丹波少将成経ら鬼界ヶ島の流人を赦免すべきと進言します。清盛も人の親、そうかそうかと同意しますが、清盛が目をかけてやったにも関わらず自分の山荘で密議をした俊寛を赦しませんでした。
赦文を携えたお使いが鬼界ヶ島につきます。鬼界ヶ島は都からはるかに離れて、船もかよわず、わずかに住む人は言葉も通じません。島には火山があり硫黄が満ち、雷や雨がやむことなく、人が生きるのが難しいようなところでした。
薩摩琵琶「俊寛」 演奏:岩佐鶴丈
薩摩琵琶の「俊寛」は、原文を元に望月唖江が作詞し、鶴田錦史が作曲した作品です。
<休憩>
▶︎鬼界ヶ島の康頼入道、成経は、熊野詣をまねて島内を巡り、都に帰れるよう熱心に祈願していたが、俊寛は天性不信心の人でそれに加わらなかった。
足摺(あしずり)
都の御使、丹左衛門尉基康の声に気づいた俊寛はあわてて駆けつけましたが、渡された入道相国の赦文の中に、自分の名前だけが無いことを知って愕然とします。
そのうち、熊野詣でしていた少将(成経)と康頼入道ももどってきました。
夢か現か?彼らには家族からの手紙も添えられているが、俺のところには何もない、家族は都からいなくなってしまったのか?そもそも同じ罪なのになぜ一人だけ残される?どういうことだ?!
少将にすがって、「こうなったのも、あなたの父の大納言がつまらない謀反を起こしたせいだ。人ごとと思うな、せめて九国(九州)まで連れていってくれ」と身悶えします。
これを聞いた少将「お気持ちわかります…私もお連れしたいですよ。でも、お使いの人はダメって言うし、許可なく三人で島をでるのは、まずいと思うんですよ。だから、まず私が先に都へ戻って、人々に根回しして、入道相国のご機嫌も伺ってからお迎えを差し上げますから。ともかく命を大切に。今回だめでも最後は絶対赦免されますよ。」…まさにクレーム処理のお手本のよう。少将はいい青年なんですが、やはりいざという時は我が身大事。
泣き叫ぶ俊寛を一人残し、船は島を離れていいきます。
有王(ありおう)
幼いころから俊寛僧都にお仕えしていた童の有王は、鬼界ヶ島の流人が今日都に帰ってくると聞いて鳥羽に迎えにいきますが、あるじの姿は無く、俊寛一人が島に残されたことを知ります。有王は両親にも知らせず、俊寛の娘の手紙を携えてたった一人で鬼界ヶ島に渡ります。薩摩潟の船津では、人が怪しみ着物をはぎとられたりしましたが、姫御前の手紙だけは髻の中に隠していました。件の島に渡ってみると、都で聞いていた以上のところで、ほんとうに、もう、なーーんにもない。ちょっと人はいるけど何をいってるのか全然わからない。有王は懸命に主人の行方を聞きますが、島の人は知らないといいます。山に分け入って峰や谷を探しますが、夢にさえも俊寛の面影は現れません。海辺に出て探しますが、かもめや千鳥の他は誰もいませんでした。
ある朝、餓鬼のような者が向こうからやってきました。有王が尋ねると「わしこそ、それだ」と俊寛は気をうしなってしまいました。ようやく主人を探しあてたのです。島の厳しい暮らしで痩せ衰えた俊寛は有王の姿を見て、これは夢まぼろしかと思います。捨てられたこの一年がどれほど厳しかったか吐露し、我が家へ行こうといいます。
こんな状況でも家を持ってるのかと不思議に思いながらついていくと、松がひとむらある中に竹と葦と松枝できたた見るも粗末な小屋(?)がありました。昔は法勝寺の事務職として400〜500人に召使いや眷属に取り囲まれていたのに、このような辛い目にあうのが不思議です。業にはいろいろあるが、僧都は一生の間に寺物仏物を私した信施無慙(しんぜむざん)の罪により現世で報いを受けたと思われました。
僧都死去(そうずしきょ)
「去年の少将や康頼の迎えの時にも、身内からの手紙もなく、今回も消息がないのは、お前が島に行くとは言わなかったのか?」と俊寛は尋ねます。
有王は涙を抑えて、俊寛が西八条に出かけてすぐ役人が来て身内の人々を尋問して殺してしまったこと、北の方(奥様)は幼い子と鞍馬の奥に隠れ住み、自分が時々お世話していたこと、幼い方は父を恋しがって「鬼界ヶ島へ連れていって」と駄々をこねていたが、去る2月に痘瘡(もがさ=天然痘)で亡くなったこと、北の方も心労が重なって亡くなったことなどを話し、姫御前からの手紙を渡しました。
その手紙の奥には「男だったら父上のいらっしゃる島へも行くのに。有王を共に急いで上京なさってください」とあった。俊寛は十二歳になる娘の手紙の無邪気さ頼りなさをひどく案じ、我が身の思うようにならないことを悔やむ。今年六歳になる幼子ももう先立ってしまった。西八条へ出かけた時になぜもう少しあの子を見ておかなかったのか。親子夫婦の縁は前世からというのに、なぜいままであの者たちが先立ってしまったことを自分は知らずにいたのか。恥も捨てて何が何でも生き延びようと思ったのは、もう一度この者たちに会いたいと思ったからだ。娘のことは心配だが、なんとか生きてゆくであろう。いつまでもながらえておまえに苦労をかけるのも忍びない」と、自ら食事をとるのをやめ、有王が渡って23日目に亡くなった。37歳だった。
有王は俊寛を荼毘に付し、遺骨を都に持ち帰り、姫御前に最期の様子を伝えた。娘は尼になり、有王は高野山の奥の院に遺骨を納め、出家して俊寛の後世を弔うのだった。
このように人々の恨み嘆きをかう平家の行く末は、思うだにおそろしい。
様々な「俊寛」の物語
今回の公演では『平家物語』の語りと、薩摩琵琶「俊寛」とを聴き比べていただきます。
薩摩琵琶の「俊寛」は、原文を元に望月唖江が作詞し、鶴田錦史が作曲した作品です。
俊寛の悲劇は後世に多くの作品になっています。
能「俊寛(喜界島)」では『平家物語』にほぼ忠実に舞台化されていますが、文楽・歌舞伎の近松門左衛門作「平家女護島」(通称:俊寛)では、成経の恋人千鳥という登場人物が加わり、俊寛が二人の恋を守るために自ら島に残る、という設定で描かれています。また、芥川龍之介作「俊寛」では、伝えられている悲劇とは異なり、有王と南国島ライフを満喫する自由人な俊寛が描かれています。
原作の「平家物語」を知ると、後世の人々が、このテーマをどう表現しようとしているか、とても興味深くみることができます。
それでは、舞台で繰り広げられる原文の美しさ、力強さを感じながら想像を膨らませてお楽しみください!
↓↓当日券もございます。↓↓
平家物語〜語りと二つの弦と絃で聴く〜俊寛
2026年
5月26日(火)19:00開演★
5月27日(水)14:00開演/19:00開演★
5月28日(木)14:00開演
★…終演後に出演者によるアフタートークがあります。
*受付は開演の45分前。開場は開演の30分前。上演時間は約1時間45分。
料金(全席指定)
一般:5,000円
ペア・グループ(2名以上1名につき):4,600円
学生(30歳以下):1,000円
*未就学児の入場はご遠慮いただいております。
*車椅子席をご希望の方はご予約時にお申し出ください。
お問い合わせ art unit ai+ ▶︎ 090-1232-1363 auaplus@gmail.com




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