【解説】「平家物語〜語りと弦で聴く〜木曾義仲」ココが見どころ! 

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義仲という人物は、戦場での英雄的なかっこよさと情の部分、都での田舎者扱いも含め、両極端のエピソードが描かれ、平家物語の中でも独特の魅力を放っています。今回のあらすじとともに、役者の金子がその魅力をご紹介します!

巻第一「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。姿羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

『平家物語』といえば「祇園精舎」。学校で暗記した方も多いと思います。祇園精舎はお釈迦様が修行した寺院にあるホスピス。病僧の死期が近づくと部屋の四隅にある鐘が自然と鳴ったそうです。さてクイズ。それはどんな鐘でしょう?

1)三井寺の鐘のような梵鐘
2)ガラス製の鐘

部屋の四隅にでかい梵鐘があったらうるさいですね。はい、答えは2)ガラス(玻璃)でできた鐘です。…もしかすると鐘というよりはシンギングボールみたいなものだったかもしれません。この物語に登場する人々は、平氏のみならず奢れるものは皆滅びていきます。平家を都落ちさせ、朝日の将軍と呼ばれたた木曾義仲もまた、従兄弟の頼朝に討たれます。

巻第七「願書(がんじょ)」)

治承4年(1180年)8月、源頼朝が伊豆で平家に反旗を翻し、9月には木曾義仲が信濃で挙兵。義仲は頼朝の勢力が及ばない北陸へ進軍し都を目指しました。義仲は頼朝より1日も早く平家を追い落とし、頼朝と並ぶ日本国の二大将軍と呼ばれたいと願っていました。この年、富士川の戦いで平家は頼朝軍から逃亡。奈良炎上。翌治承5年(1181年)閏2月には平清盛が死去。義仲は着々と北陸を攻め進みます。
寿永2年(1183年)3月、頼朝と義仲との間は険悪になり開戦寸前になりましたが、義仲が嫡子義重を人質として関東へ遣わしたので一旦は収まりました。

寿永2年(1183年)4月17日、平家軍10万騎が都を出発。
同5月11日、石川県津幡と富山県小矢部の境にある砺波山(倶利伽羅峠)で義仲軍5万騎と戦うことになりました。

ここで義仲の合戦で見せる才気の一端が描かれます。

平家が砺波山を降りて、小矢部側の平地で戦うことになれば多勢に無勢。平家軍を砺波山の中に留め、夜陰に乗じて前後から奇襲し断崖絶壁の倶利伽羅が谷(地獄谷)に追い落とそうという作戦を立てました。そこでまずは白旗をたくさん立てて大勢に見せかけ、小競り合いを繰り返し日が暮れるのをまちます。平家は案の定「源氏の先陣は多勢だぞ!平地へ降りては我らは不案内、今夜はこの峠で馬を休ませよう」と山中の猿の馬場というところに陣を構えました。平家は峠の上に陣取り、木曽軍を眼下に見下ろす状況です。一挙に降り攻めたらあるいは平家が勝利したかもしれませんが、平家の大将軍維盛と通盛はそうはしませんでした。

さて、羽生に陣をとった義仲が見回すと山の中に神社が見えます。地元の案内に聞くと、八幡様だといいます。八幡大菩薩は源氏の氏神!幸先よし!この合戦には必ず勝つぞと勢いづいた義仲は戦勝祈願をします。この願書を書いたのが手書の大夫坊覚明。神様に願いを聞いてもらうにはやはり良い文章、感動的な文章が大事なんですね。この人はなかなか面白い人で、治承4年の以仁王(高倉宮)の乱の時に以仁王が奈良に諜状を送った時、返事をこの覚明(当時は信教と名乗っていた)が書いたのですが、清盛のことを「平氏のカス(糠粕)!武家のゴミ(塵芥)!」とめっちゃディスりました。清盛は怒ったのなんの。で、覚明は北国に落ちて今は義仲に雇われてるという次第です。

願書にはざっくりいうとこんなことが書かれていました。

「八幡大菩薩は代々の天皇の先祖であり、天皇を守るため人民に利を与えるためにこの世に現れていられる。ところが数年前から平相国(清盛)というものが日本を支配し万民を苦しめている。義仲は身分は低いが武士の家に生まれてわずかながら父の遺業を継いでいる。あれこれ考えずに義兵を起こし、凶悪な者(清盛)を退けようと試みている。まだ兵士の心が一つになっていないところへこの戦場で八幡宮を拝した。これは勝利間違いない。歓喜の涙がこぼれる。今この大事を起こすのは、嬰児が貝殻で大海の水をはかるようなもの。しかし国のため君のためであり、家のためや自分のためではない。仏神の思し召しで加護を与えられるならば、まず一つの瑞相をお見せください。」

すると、雲の中から山鳩が三羽飛んできて源氏の白旗の上を飛び回りました。義仲にとっては、勇気百倍誠に頼もしいことでありました。

願書を書く覚明(プリンストン大学デジタルライブラリーより)

巻第七「倶梨迦羅落(くりからおとし)」)

いよいよ源平両方が陣を合わせます。義仲軍は作戦通り、兵を小出しにして、日が暮れるまで勝負を決しないようにしました。暗くなると、樋口次郎の軍勢を倶梨迦羅の背後に回らせ、平家軍を前後から挟み撃ちにしました。現地に行くとよくわかりますが、平家軍は峠の上にいるんですね、急峻な山なので、源氏は登ってこないと安心していました。ところ夜になったら、突然四方から敵が攻め上がってきた。これには平家軍も大パニックになりました。義仲は地元武士たちの協力をえて、山岳の地形を生かした戦法をとったわけです。倶梨迦羅谷(地獄谷)に次々と平家の7万騎が追い落とされました。その谷から流れる川を「膿川」といいます。当時の凄惨な状況がうかがい知れる名前です。

須川さんのベースが鳥肌が立つほど臨場感あふれて、わたしは本当に自分がその谷の底に落ちたような感覚になります。

さて、義仲は計画通り倶梨迦羅の戦いに大勝利を納め大大大満足です。ところが気がかりなのは叔父の十郎蔵人行家の志保の戦。このおじさんは色々やらかす手の焼ける人でした。精鋭2万騎で義仲は助太刀に行き、そこでも勝利を納めて能登の小田中に陣をとりました。

義仲の勢いに満ちたそんな章段です。

義仲軍に迫られ倶利伽羅が谷へ落ちていく平家軍(プリンストン大学デジタルライブラリーより)

巻第七「実盛(さねもり)」

倶梨迦羅の戦いの10日後、5月21日、平家軍は加賀国篠原の戦いにも惨敗します。その中に、若々しい大将の出で立ちでたった一騎、応戦し続ける奇妙な武者がいました。木曾軍の手塚太郎が「お名乗りください」と声をかけてもその武者は名乗りません。手塚はその首を討ち取り木曽殿に見せました。すると義仲は「これは、斎藤別当(実盛)であろう。それならばすでに白髪になっているはずなのに、なぜ(この首は)鬢髭が黒いのだ?樋口次郎が知っているだろう」と樋口を呼びます。すると樋口はこの首は斎藤別当だといい、かねてより斎藤が「60歳をすぎたら白髪染めをして若々しくしようと思う。若者に混じって先陣争いをすれば大人気ないし、先を譲れば年寄りだとバカにされるから」と言っていた、本当に染めたのだな…洗わせてご覧なさいというので、洗わせてみると白髪になりました。今も加賀市には実盛の「首洗池」というのが残っています。

さてもう一つ実盛には謎がありました。錦の直垂を着ていたことです。当時の武将は身分や年齢にあった装束を着ていました。70歳を過ぎ身分の高くない実盛なら普通は渋目の色の直垂や鎧を着用すべきところが、大将軍が着る錦の直垂に若々しい萌黄色の鎧、それに大将軍が乗るような馬に乗っていたのです。その理由が最後に明かされます。

義仲の父義賢は兄義朝と反目し合い、承久2年(1155)ついに義朝の子である義平が義賢に戦いを仕掛けました。この合戦で義賢は討ち死にし、2歳だった義仲は斎藤実盛に送り届けられ、乳母の夫である木曾の中原兼遠に育てられました。実盛は、もとは源氏の武士で、治承4年(1180)の石橋山の合戦の時に頼朝に弓を引き、平家側につくことになりました。先の富士川の合戦では、大将軍の維盛に問われて東国武士の荒々しさやド根性を、良かれと思って散々説明したところ、それを聞いた平氏の侍たちがビビってしまい、水鳥の羽音でパニックを起こし逃げ帰ったという出来事がありました。

実盛は、自分一人のせいではないけれど、その時の責任をずっと感じていて、今度の北国の戦いでは討ち死にする覚悟でした。生きて故郷に錦を飾るかわりに、錦の直垂を着て故郷の越前国で戦死したいと願い出て、大臣殿宗盛に許されたのです。文章の美しさが実盛の哀れさを一層引き立てます。

私は、この実盛おじさんの白髪染めの話は、おかしみと哀愁があってたまらなく好きです。わかる。わかるようになってきた自分がヲリます。おじさんを嬉々として演じてしまう自分がヲリます。

手塚太郎とその郎党に組み落とされる斎藤実盛。赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧を着ている。(プリンストン大学デジタルライブラリーより)

寿永2年(1183)4月17日に十万余騎で都を出発した平家軍は義仲軍に惨敗。5月下旬に帰還した時はわずかに2万余騎にまで減っていました。平家にとってこのショックは大きく、その二ヶ月後、義仲が比叡山を超えて入京すると聞いた平家一門は、取るものもとりあえず、あてもなく都落を決意します。7月25日のことでした。
さて、都落に同行せず姿を隠した後白河法皇は28日に義仲に守られて帰京。義仲・行家に平家追討の院宣が下されます。8月10日、義仲は左馬頭となり朝日将軍と呼ばれるようになりました。
このころ飢饉の影響もあり都の治安はよくありませんでした。後白河法皇は義仲に都の守護を命じ、従五位下に叙すなど良好な関係を築いたかに見えましたが、新天皇擁立を巡って法皇と義仲は対立。9月に入り「平家追討」を命じ、体良く義仲を都から追い払った法皇は頼朝に急接近し、10月には頼朝に征夷大将軍の院宣が下されます。(頼朝の立派さに引き換え、義仲の都での振る舞いは田舎者で無知・無作法であったと「平家物語」は描いています。)
急ぎ都に戻った義仲は、頼朝軍が入京する前に軍事クーデターを起こすことにし、11月19日法住寺合戦で法皇軍を破り法皇を幽閉、義仲政権が誕生します。法皇側の公家や武士の官職を大量に罷免し、藤原師家を摂政にし、あろうことか平家へ使者を送り「一つになって東国を攻めよう」と誘います。喜んだのは宗盛ばかり。時忠も知盛も「どんなことがあっても義仲に誘われて都へ帰ることは絶対にならない。義仲が降伏すべき」と言いましたが、義仲は了承しませんでした。
明くる寿永3年(1184年)1月11日に、義仲が平家追討のために西国へ出発しようとすると、義仲追討の院宣を受けた頼朝軍が都に迫ります。
1月20日、大手の瀬田では範頼軍3万5千騎が今井兼平800余騎を破り、搦め手の宇治では義経軍2万5千騎が根井・楯500余騎を破り、勢いに乗った義経軍に、義仲は六条河原で敗れます。

巻第九「木曾最期(きそのさいご)」

木曽殿は信濃から、巴、山吹という便女(身の回りの世話をする女性)を連れて来ていました。山吹はいたわりあって(=妊娠して)都にとどまりました。巴は大変な美しく、武将としてもハンパなく強い女性でしたので、六条河原でも討たれず7騎のうちに残っていました。

戦う巴(プリンストン大学デジタルライブラリーより)

木曾は丹波路もしくは北国へ脱出するとみられていましたが、乳母子の今井兼平の行方が気になってしかたがありません。わざわざ引き返して瀬田へ向かいました。兼平もまた主人の義仲が気がかりで急いで都へ引き返す時に、大津の打出の浜で二人は再会します。今ならメールやLINEで簡単に連絡が取れますが、互いの無事もわからぬ中でこれはもう奇跡的な再会です。木曾は今井の手を取って「義仲は六条河原で死ぬつもりだったが、お前の行方が恋しくて、多くの敵の中を駆け割ってここまで逃れてきたのだ。」今井も「お言葉かたじけなく思います。兼平も瀬田で討ち死にいたすべきでしたが、あなたの行方が気がかりでここまで参りました。」木曾は「契り(約束)は朽ちてはいなかった!!」と喜びます。

義仲と今井のお互いを思い合い求め合う気持ちが…熱すぎます。「契り」とはいったいなんでしょうか?

キーワードは「乳母子(めのとご)」です。乳母子はこの時代の日本に見られる特徴的な人間関係です。当時身分の高い子は、乳母がお乳をやって育てました。当然乳母には同じくらいの年の子供がおり、乳母子は主従関係であり、義兄弟であり、親友であり、ときには性別を超えた愛情の対象でもあり、とにもかくにも「死ぬならば同じところで一緒に死ぬ」と約束した仲でした。

幼い時に父を従兄弟(頼朝の兄)に殺された義仲は、斎藤別当に連れられ、木曾の中原兼遠に預けられ育てられました。その中原兼遠の子が、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、巴でした。この兄妹と義仲は乳母子として強い強い絆で結ばれていたのです。

今井とともに最期の戦いをすることができる!義仲に力がみなぎります。今井が差し上げた旗を見つけて集まった300余騎を率いて、目の前の一条次郎軍6000騎の中へ駆け入ります。義仲の最期の名乗り。入京してからわずか半年、天下を取る夢は敗れ、父と同じく同族の従兄弟に討たれる…「左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲ぞや」ありったけの肩書きを名乗るこのシーンが切ないです。頼朝軍にも散々打撃を与えますが、とうとう義仲は5騎まで討たれてしまいました。

義仲はここで巴に落ち延びるよう強く言います。「自分は討ち死にする覚悟だ。木曾殿の最期の戦に女を連れていた言われるのもよろしくない。」…巴は立ち去ろうとしません。しかしあまりに言われたので、「最後の戦をしてお見せしよう」と武蔵国の恩田八郎の首を討ち取って物具(鎧)を脱ぎ捨てて東国へ落ちていきました。手塚太郎も討ち死にし手塚の別当も落ちていきました。

私はこのシーンを語るたびに義仲と巴の互いの複雑な思いが溢れて来て、本当に胸が痛くなります。巴はただの愛妾ではありません、武士であり乳母子なのです。最期は一緒に死ぬためにここまで来たのです。それなのに今更義仲はお前は女だから生き延びろという。なぜ最後まで一緒にいさせてくれないのか……。巴を死なせたくなかった義仲はそう言うしかなかったのです。彼の不器用な優しさ。大切な人と人とを引き離す戦争の無情さを感じずにいられません。

義仲は今井と二人になったことで、初めて弱音を吐きます。「日頃はなんとも思わない鎧が今日は重く感じる」と。今井は励まします「お体も疲れていない、御馬も弱っていない、続く勢がいないから気遅れてそう思うのです。兼平が一人いれば千人の武者がいるとお思いください。しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えますのを粟津の松原と申します。あの松の中でご自害なさいませ。」といってうっていと、義仲は「ここまで逃れて来たのは、お前と一緒に死ぬためだ、別々に討たれるよりも一つ所で討ち死にをしよう」といって最後まで一緒に行こうとします。

今井兼平は馬から飛び降りて、それはだめだと義仲の馬の口に取り付いて必死に説得します。「日頃どんなに功名があっても、最期の時に不覚をすれば武士として長い傷となります。お体はお疲れになっています。続く見方もおりません。敵におし隔てられて、つまらぬ人の家来に討ち取られて、あの有名な木曾殿を討ったなどと言われるのは口惜しい。あの松原にお入りください。」そんなことは絶対にさせないという…今井の魂からの言葉が痛いほど胸に刺さります。木曾は「それならば」と言って粟津の松原へ馬を走らせました。

今井はただ一人50騎の中へ駆け入り、大音声をあげて名乗りながら猛烈に戦い分捕りあまたします。義仲が松原で立派に最期を遂げるまで、敵を自分に引きつけておかなければなりません。敵は雨の降るように矢を射ますが鎧がいいので貫通しません。

さて、義仲はたった一騎で粟津の松原へ駆けていきましたが、正月21日の夕暮れ時で薄氷が張った深田があるとも知らずに馬をうち入れたところ、馬の頭も見えなくなってしまいました、あおっても打っても動きません。今井の行方が気になって、振り返った兜の内側を、三浦の石田為久に射抜かれてしまいました。そこへ石田の郎党(家来)が2人やってきて、ついに木曾殿の首を討ち取りました。太刀の先に突き刺して石田は「木曾殿を討ち取ったぞ〜〜」と大音声で名乗ります。

それを聞いた今井は、かばうべき人がいなくなって戦うのをやめ、「日本一の剛の者の自害の手本だ」と言って太刀の先を口に含み馬から逆さまに飛びおちて太刀に貫かれるようにして死んでしまいました。こうして、粟津の戦というものはなかったのだ、と物語はあっけなく終わります。。

深田に沈む義仲とそれを討ち取ろうとする石田為久(プリンストン大学デジタルライブラリーより)

お互いを思い合ったがゆえに、ともに死ぬことができなかった義仲と兼平と巴。倶利伽羅の戦いで武将としてのあれほど輝いた義仲が、最後の最後に、己ではどうしようもない運命の歯車に飲み込まれていいきます。これほどに乳母子の今井を求める義仲の強さと弱さ…人間的魅力に心を動かされずにはいられません。

平家物語では名だたる武将が、名もなき身分の低い郎党(家来)に討ち取られるというパターンが数多く描かれています。作者は戦争の非情さ、人間の運命の無情さを表現したかったのかもしれません。それでも私たちは自分の人生を精一杯生きていくしかないのです。

木曾義仲の熱い物語を、ぜひ劇場でご覧ください!お待ちしております。(くりからおとし)

2024年7月23日(火)~25日(木)
座・高円寺2

治承3年(1179)源義仲は打倒平家の挙兵をする。北陸で大勝し平家を都落ちさせ入京を果たすものの、寿永3年(1184)義経らの軍に敗れ、義仲は31歳で討ち死にした。時代を駆け抜け散っていった木曾義仲と今井兼平らの壮絶な生き様を、金子あいの時空を超える圧倒的な語り芝居と、気鋭のJAZZベーシスト須川崇志の魂を揺さぶる圧巻の演奏で蘇らせる、唯一無二、必見の舞台!!

上演章段

【祇園精舎】
【願書】義仲は倶梨迦羅谷に平家を追い落とそうと夜襲を計画、山中で見つけた埴生八幡宮に奉納する願書を覚明に書かせ、必勝を祈願する。
【倶梨迦羅落】義仲は計画通り、平家軍を取り囲み、谷底へ追い落とし、夜襲に成功し大勝する。平家は倶梨迦羅谷で約7万騎を失う。
【実盛】斎藤実盛が覚悟通りの討死をする。老武者と悟られないよう白髪を黒く染めた姿に義仲は感涙を流す。
【木曾最期】 頼朝に攻められた義仲は、乳母子の今井兼平や巴らと最後の戦に挑むが、粟津松原で討死する。今井兼平も自害する。
(詳しい原文・現代語訳を順次アップしていきます)(上演約80分予定)

公演日程

7月23日(火)19:00 ★アフタートーク
7月24日(水)14:00
7月24日(水)19:00 ★アフタートーク
7月25日(木)14:00
*開演45分前から受付。開場は開演30分前。

┃出演┃

金子あい(語り芝居)
須川崇志(コントラバス)

スタッフ

照明:和田東史子 /音響:荒木まや/アートディレクション:トクマスヒロミ /ヘアメイク:萩原しずこ/舞台監督:穂苅竹洋/演出助手:伊奈山明子 /ドラマトゥルク:野澤千佳子/デザイン:art unit ai+/宣伝写真 bozzo /制作助手:さかまきゆう
協力:株式会社藤原プロデュース
後援:杉並区
企画・制作・主催:art unit ai+ かなえのかい

┃チケット料金┃

前売当日共、全席指定
1)一般=5,000円
2)ペア割=9,200円(2名1組)
3)U23割=1,000円
*3名以上のグループはお一人4,600円になります。
*U23券は席数限定。当日受付で年齢を確認できるものをご提示ください。
*未就学児の入場はご遠慮いただいております。
*車椅子でご来場の方は事前にご予約ください。

┃チケット発売┃

5月11日(土)午前10:00

チケット取扱い

↑上記の申込フォームは24h受付けています。
申込後、すぐに確認メールを送信しますので、auaplus@gmail.comからのメールを受信できるように設定してくださいますようお願いいたします。

◉art unit ai+ 
メール auaplus@gmail.com
電話 090-1232-1363 (平日11:00〜18:00)

*電話に出られない時は折り返しこちらからかけ直しいたします。

お問合せ

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*電話に出られない時は折り返しこちらからかけ直しいたします
auaplus@gmail.com


古典を未来に。

2002年から平家物語を語り始めはや20年。2011年から現代的な音楽とのコラボで「平家物語〜語りと波紋音」「平家物語〜語りと弦で聴く」を上演して10年が経ちました。いまに通じる古典の面白さを伝えたい、そして、何よりも私自身が古典の魅力の虜になって無我夢中でやってきました。これまでに83公演、8000名以上の方にご覧いただくことができました。心より感謝申し上げます。今年5月にはこれまでの感謝を込めて、集大成となる公演を行います。ぜひ劇場に足をお運びください。
そして──その先の10年へ、古典を未来に。
平家物語がみなさまの人生を豊かに、生きる力となるよう、この先の10年もさらにこの活動に取り組んでいきたいと思っています。多くの方に楽しんでいただけるハイクオリティな舞台・映像作品を作ってまいります。夢は大きく、全国に!海外に!平家物語を聴いていただきたいと思っています。どうか一緒に作品を作ってくださいませんか。

ぜひ私たちの「平家物語」を応援してください。みなさまのサポートをお待ちしております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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「平家物語」舞台映像シリーズ

『平家物語〜語りと弦で聴く〜滅亡の焔』(AFF助成)73分
祇園精舎、奈良炎上、入道死去、抄文三種神器、千手前 2021.10.29@座・高円寺2で収録

『平家物語〜語りと弦で聴く〜俊寛(アートにエールを!東京プロジェクト助成)68分+アフタートーク
祇園精舎、鹿谷、赦文、足摺、有王、僧都死去 2020.11.13@座・高円寺2で収録


プロフィール

金子 あい(俳優・アーティスト)
東京藝術大学大学院環境造形デザイン修了。art unit ai+主宰。和洋を問わず現代劇から古典まで様々な舞台で活動。2011年より演出・主演をつとめる「平家物語」シリーズを波紋音の永田砂知子と全国で公演。2020年からは気鋭のジャズベーシスト須川崇志と「平家物語〜語りと弦で聴く」4K舞台映像シリーズを発表。圧倒的で鮮やかな語り芝居で古典を蘇らせる。その他に舞台「石牟礼道子 六道御前」「紫式部の気ままに源氏物語」、YouTube「おうちで読もう百人一首」シリーズ等を発表。主な出演作は「子午線の祀り」(第25回読売演劇大賞最優秀作品賞)「雁作・桜の森の満開の下」日生劇場「アリスのクラシックコンサート」「アラジンと魔法のランプ」等。能を喜多流粟谷明生に、新内節を鶴賀流第十一代家元鶴賀若狭掾(人間国宝)に師事。「平家物語」の朗読指導にも力を入れている。

須川崇志(Bass,Cello)
群馬県伊勢崎市出身。11歳の頃にチェロを弾き始め、18歳でジャズベースを始める。2006年、ボストンのバークリー音楽大学を卒業。その直後に移住したニューヨークでピアニスト菊地雅章氏に多大な影響を受ける。2009年に帰国後、辛島文雄トリオを経て日野皓正バンドのベーシストを6年間務める。現在は峰厚介カルテット、本田珠也トリオ、八木美知依トリオ他多くのグループに参加。数多くの国際ジャズフェスティバルに出演。近年は、Audi A5新車発表会での楽曲制作と演奏(2017)、岡本太郎記念館の企画展「日本の原影」のためのソロ楽曲制作 (2019)や、俳優の金子あいの舞台「平家物語」に即興演奏で参加。米津玄師「ゆめうつつ」、YUKI「泣かない女はいない」(2021) などレコーディング参加作品も多数。また2018年にデビューアルバム作品「Outgrowing」(レオ・ジェノヴェーゼ, トム・レイニー)を、2020, 21年に自身が主宰するピアノトリオ、Banksia Trio (林正樹, 石若駿)で「Time Remembered」,「Ancient Blue」全3作のリーダーアルバムをリリースしている。


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