金子が解説!見どころ聴きどころ 2 「奈良炎上」

平家物語〜語りと弦で聴く〜滅亡の焔

2013@座・高円寺2(Photo by bozzo)

先日、行ってまいりました!!うましうるわし奈良!!

素晴らしすぎました。悠久の時を感じ、大陸まで繋がるロマンを感じて、金子感涙に咽びました。
(うん十年前の)芸大の古美術研修旅行以来でございます。

1日目は、山科→醍醐寺→法界寺(重衡の妻がいたところ)→平等院→宇治川→木津安福寺(重衡のお墓)→般若寺→奈良少年館別所(煉瓦造りが素晴らしい)→転害門(平安時代から残る門)→聖武天皇陵→若草山。

2日目は東大寺→春日大社→(バスに乗り間違えて)平城京跡朱雀門→興福寺→最後に上等な葛餅を食べてフィニッシュ!
ふう〜〜。

さて、その中から、「奈良炎上」に関わるところを少しお話ししましょう。

あらすじは、こんな感じ。
都で「以仁王の挙兵に同調し、以仁王を迎えに行った奈良興福寺の大衆(だいしゅ)は朝敵である、清盛はきっと奈良を攻めるにちがいない」という噂が立つやいなや、奈良の大衆が蜂起しました。興福寺を氏寺とする藤原氏の摂政がとりなそうとしますが、大衆は聞く耳を持たず、お使いに行かせた人をとりかこんで髻(もとどり)を切ってしまいます。また大きなボールを作って「清盛の頭を打て、踏め」などと悪ノリします。清盛は大衆が自分を愚弄していると聞いて、ひとまず武器は使うなと命じつつ、瀬尾兼康の軍を派遣しますが、大衆は捕らえた60人あまりの首を切って猿沢の池の周りに並べます。激怒した清盛はついに重衡(しげひら)を大将軍とし、4万騎を奈良に派兵します。馬で駆け回り弓矢を使う平家軍に対して、徒歩で刀を持って抗戦する大衆に勝ち目はなく、1000人以上が戦死しました。夜になり、重衡は般若寺(はんにゃじ)の門の前で「火を出せ」と命じます。あたりの民家に放たれた火は、強い風に煽られてたちまち興福寺や東大寺の広大な敷地に燃え広がり、興福寺の伽藍も東大寺の大仏も焼け落ちました。また東大寺大仏殿の2階や興福寺に逃げ込んだ非戦闘員の人々3500人余りが焼け死にました。その結末を聞いて清盛だけが喜びましたが、建礼門院や後白河院、高倉上皇、摂政らは深く嘆きました。

治承4年(1180)12月に実際に起こった南都焼討のお話です。

般若寺 楼門(鎌倉時代)


コスモス寺として有名な般若寺は、東大寺の大仏殿を見下ろす北側の山に位置し、京都から奈良への入り口にあたります。大衆は平家軍を奈良へ入れまいと堀とバリゲードを築き固めましたが、あっという間に攻め落とされてしまいました。昔は民家はなくあたり一帯が寺だったとご住職がおっしゃっていました。般若寺の南大門の前に立ち、重衡が奈良の町を見下ろしていた姿が目に浮かびます。(般若寺には重衡の小さな供養塔がありました。)

興福寺 五重塔

興福寺は藤原氏を大檀那とし、大変な財力と権力が集まっていたお寺です。法相学の研究機関で、今でいう大学のようなところでした。敷地は現存する伽藍よりはるかに広大で、今の奈良県文化会館あたりから、奈良ホテル、春日大社、三笠山…つまり奈良公園、奈良の町ほとんどが興福寺だったと言ってもよいかもしれません。塔頭の多くは藤原一族の子弟の受け入れ先で、僧兵も多く抱えていました。京都の為政者にとって、比叡山とならんで興福寺は無視できない勢力だったのです。

春日興福寺境内図

原文では、興福寺の東金堂、西金堂、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹を交えし二階の楼、二基の塔が焼け落ちたくだりがあります。

この瑠璃というのがいまいちよくわかっていなかったのですが、東金堂でいただいたパンフレットを読むと、なんと!726年の創建当初は床に緑色のタイルが敷かれていたと書かれています。ということは回廊にも緑色のタイルが敷き詰められていたんですね!うおーー!朱と緑の伽藍はなんと美しかったことでしょう。
ではでは二階の楼は何を指しているのか?目の前に見える中金堂かしらん?原文の注釈には興福寺副長官を務めた喜多院が二階建てであったとあり、奈良女子大所蔵の古地図を調べると、喜多院は今の奈良文化会館あたりにありました。今見ている伽藍だけではなく、広大な興福寺の敷地がことごとく焼けてしまったことがはっきりと目の前に見えてきて、ぞくっとしました。なんということを。。。

猿沢池


東大寺は、聖武天皇が河内のお寺にある毘盧遮那仏に感動して、国家事業として作ったお寺で、華厳学(釈迦が悟りを開いて最初に解いた思想)のいわば国立大学です。華厳経はシルクロードの古代于闐国が発祥といわれ、中国で200年かけて花開いたインド哲学と中国哲学の折衷のようなもの(司馬遼太郎「街道をゆく24」より)だそうで、奈良の寺院には多くの外国人教授が来日し、国際色豊かなまちでした。

東大寺大仏殿

創建当時の大仏殿は、今よりも左右に二間ずつ大きく、様式もおおらかさと豪快さのある建物でした。何度か焼けていますが、江戸時代の再建は資金不足で一回り小さくなったそうです。大仏殿に模型がありますので是非見てみてください。

毘盧遮那仏に鎮魂の心を込めて語りますと参拝し、見上げると、そのお姿に圧倒され言葉もでません。

原文では、絶対不滅の完璧な毘盧遮那仏が焼け落ちていく様子を人々は見ることができなかったと、激しく悲しみにくれる様が描かれています。その大仏殿の二階には1700余名もの人々が逃げ込み、梯子を引き上げてしまったため逃げ場を失って焼死しました。なんてことをしたのか。。。。

私は、大仏殿からしばらく動くことができませんでした。

この、想定外の国家的大惨事を聞き、清盛は憤りが晴れたと言って一人喜びます。この清盛の様子は、過剰な権力を持った者の横暴さと無責任さが表れていて、演じていてもやりきれないです。

聖武天皇陵にもお参りしました。一頭の鹿が私たちを迎えてくれて、森の中に消えていきました。静かに夕闇が迫り、そこだけ不思議な時が流れているようでした。

忘れられない旅になりました。

清盛と重衡がこのあとどうなるか。続きをお楽しみに。

俳優金子あいとジャズベーシスト須川崇志が時空を超えて表現する「平家物語」をぜひ目撃しに来てください。


平家物語~語りと弦で聴く~【滅亡の焔】公演 詳細はこちら

座・高円寺2
2021年10月28日(木)16時
29日(金)13時/18時

チケット(一般4,500円、学生<30歳以下>2,000円)
お申し込みはauaplus@gmail.comへメール
または090-1232-1363へお電話で



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