いよいよ、源平両方が陣をあわせて鬨の声をあげる。上は梵天までも聞こえ、下は海竜神もおどろいているだろうと思われた。新中納言知盛卿は、舟の屋形に立ち、大音声をあげておっしゃるには、「いくさは今日がかぎり、者ども けっして退いてはならない。天竺、震旦にも日本我朝にも並ぶものがいない名将勇士といえども、運命が尽きてしまえばどうにもできない。しかし名声は惜しい。東国の者たちに弱さを見せるな。いまこそ命を惜しまず戦え、以上が私の本心だ」とおっしゃると、飛騨三郎左衛門景経が前にいたが、「いいか聞け、侍ども」と命令した。上総悪七兵衛が前に出て言うには、「坂東武者は馬の上でこそ一人前の口を聞くが、舟いくさの調練はしていないはずだ。魚が木にのぼったようなものであろう。一々捕らえて海に投げこもう」と言った。越中次郎兵衛が言うには、「同じことなら大将軍の源九郎義経に組みなさい。九郎は色が白く背が低くて、出っ歯が目立っているそうだ。ただし直垂と鎧をいつも着替えるので、すぐに見分けにくいそうだ」といった。上総悪七兵衛は、「心は勇ましくても、その若造はいかほどのものか。片脇にはさんで海に投げ込もうぞ」と言った。(略)
平家は千艘あまりを三つに分ける。山鹿の兵藤次秀遠が五百艘あまりで先陣に漕ぎ向かう。松浦党が三百艘 あまりで二陣につづく。平家の君達が二百艘あまりで三陣につづく。兵藤次秀遠は九州で一番の強弓を引く者だが、自分ほど力はないが、そこそこに強弓を引く兵たち五百人を選りすぐって各舟の船尾と舳先に配置し、肩を一面にならべて、五百本の矢を一度に放つ。源氏は三千艘あまりの舟なので、軍勢の数こそ多かっただろうが、方々から射たので、どこに強弓を引く者がいるのかわからない。大将軍の九郎大夫判官は、まっさきにすすんでたたかうが、楯も鎧も耐えられず、さんざんに射込まれた。平家は味方が勝ったといって、しきりに攻め鼓をうって、よろこびの鬨の声をあげた。
その後源氏も平氏も互いに命を惜しまず、わめき叫んで攻撃する。どちらも劣っているとは思えない。けれど平家の方には、十善帝王(帝)が三種の神器をたずさえておられるので、源氏はどうなるだろうかと危うく思ったところ、しばらくは白雲かと思われて、空にただよっていたが、雲ではなかったのだ、持ち主のいない白幡が一本ひらひらと下りてきて、源氏の舟の舳先に、棹に結びつけるひもがふれるぐらいに見えた。判官は、「これは八幡大菩薩が霊験をお示しくださったのだ」とよろこんで、手を洗いうがひをして、これを拝んだ。兵たちも皆同じようにした。
また源氏の方からいるかという魚が一、二千ほど口をぱくぱくして、平家の方へむかった。大臣殿はこれを見て、小博士晴信を呼んで、「いるかはふだんも多いけれど、このようなことはまだない。どういうことなのか考えを申せ」とおしゃったので、「このいるかが、水面で息継ぎをして水中に戻れば、源氏が滅びるでしょう。口をぱくぱくしながら通り過ぎると、お味方の戦さはあやういようです」と言い終わらないうちに、平家の舟の下をまっすぐ口をぱくぱくしながら通過した。「世の中は今となってはこれまでです」と申し上げた。
阿波民部重能は、この三年間、平家によく忠をつくし、度々の合戦で命を惜しまず防戦したが、息子の田内左衛門を生け捕りにされて、もうどうしようもないと思ったのだろうか、たちまち心がわりして、源氏に味方してしまった。平家方では計略として、高貴な人を粗末な兵船に乗せ、雑人たちを立派な唐船に乗せて、源氏が貴人が乗っているかと期待して唐船を攻めれば、周りを取り囲んで討とうと準備していたけれど、阿波民部が裏切ったので、唐船には目もくれず、大将軍が身分を隠して乗っておられる兵船を攻めた。新中納言は、「腹立たしい。重能を斬って捨てるべきだったのに」と、何度も後悔したがどうしようもない。
そうするうちに、四国、九州の武士たちは、みんな平家に叛いて源氏に味方する。いままで従っていた者たちも、主君にむかって弓を引き、あるじに対して太刀を抜く。むこう岸に着こうとすると、浪がたかくてたどり着けない。ちかくの岸に寄ろうとすると、敵が矢さきをそろえて待っている。源平の国争いは、今日で最後と思われた。
ダウンロードできます↓↓↓