義仲を追いかけて~小矢部・倶利伽羅編 

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北陸新幹線の富山駅から乗り継いで石動(いするぎ)駅に到着。今回は、小矢部市役所の船見さんが、木曾義仲関連の場所を詳しくご案内くださいました。今まで本を読むだけではわからなかった倶利伽羅の地形や様々な史跡を丁寧に説明してくださって、ありありと思い描けるようになりました!ありがとうございました。

最初に訪れたのは、埴生護国八幡宮。倶梨迦羅峠の合戦で、義仲が本陣を構えた場所です。

義仲があたりを見回すと、

夏山の峰のみどりの木の間より、朱(あけ)の玉墻ほのみえて、かたそぎ作りの社あり。

そこが源氏の守り神である八幡宮と知った義仲は、勝利まちがいなしと喜びます。

急な石段を登っていくと社殿が見えてきました。義仲が見つけた時は朱塗りだったんですね。

社殿の隣にある宝物殿に、義仲が奉納した願書と鏑矢、矢じりが展示されています。

これは江戸時代に作られた、願書の精巧な写し。

願書にもっと近づいてみましょう。

義仲のやる気が、文字の力・言葉の力を通して、ぐいぐい心に伝わってきます。

埴生護国八幡宮で「願書」を見たことで、金子は舞台で語るときの心構えが定まりました。

国の為君の為にして之を起こす。家の為身の為にして之を起こさず

平家追討の大功をなんとしても成し遂げるという義仲のまっすぐな思いを受け取ったからです。

金子も、義仲にならって、プロジエクトの成功を祈願いたしました。

次に向かったのは 倶梨迦羅不動寺。 そこから平家が倶梨迦羅峠にむかったルートをたどります。

埴生護国八幡宮の宝物殿に《源平礪波山戦闘の状況図》がありました。

平家物語「倶利伽羅落」は何度も語っていますが、地図を見てリアルに地形を想像するのはなかなか難しいものです。赤が平家軍で北陸道を石川県側から砥浪山の中を進みます。対する源氏の義仲軍は富山県側の平地に昼間は陣を取ります(白青)。義仲軍は昼間はふもとにいて、日が暮れてから攻めのぼり山頂付近にいる平家を取り囲みました(青)。樋口は搦め手へ回り、平家の本陣、平維盛の陣地の背後を不意打ちします。

義仲軍は地元の武将たちを道案内とし、平家を油断させ、夜中に山を攻めて、倶利伽羅が谷へ追いおとす作戦を考えました。さあ、いよいよ倶梨迦羅古戦場を実際に歩いてみます。わくわく!

倶梨迦羅不動寺は、猿が馬場の西側にあります。

腹が減っては戦はできぬ。まずは腹ごしらえ、境内で倶利伽羅蕎麦をいただきました。美味しい〜!

境内から立山連峰が見えます!なんとすばらしい眺め!

倶梨迦羅不動寺から猿が馬場に向かって、旧道をずんずん歩いていきます。平家の軍勢がここを馬で通っていったのかなあ。想像がふくらみます。

展望台から画面右端の「源氏ヶ峰」を眺めます。源氏ヶ峰の手前の谷が七万騎が落とされた「倶利伽羅が谷」です。まだピンと来ていない金子。

展望台の近くには「火牛の計」の牛さんオブジェが。源平盛衰記には記述がありますが、平家物語にはありません。イメージは膨らませつつ、原文をどう表現するか脳内妄想中。

猿が馬場は「山中で少し広い場所のあるような地形」のことをいいます(日本国語大辞典)。普通名詞なんですね。さあ、平家が本陣を構えた、猿が馬場に着きました。

義仲を愛して止まなかった松尾芭蕉の塚「義仲の寝覚めの山か月かなし」。

義仲は平家の動きを予測し、つぎのような作戦を立てました。

平家は大軍なので砥浪山を越えて広い場所にでて、互いに正面から戦おうとするだろう。だが、源氏の大軍がいると平家に思わせたら、警戒して進むのをやめるはずだ。頂上付近にいる平家は、背後から源氏の軍勢が攻めてくることはないと思って、そこにとどまって馬を休ませるので、そのまま日没まで戦いを引き延ばして、平家を倶梨迦羅谷に落とす。平家の背後には、樋口次郎の軍勢を向かわせました。

木や草が生い茂っていますが深さがひしひしと伝わってきます。地獄谷(倶梨迦羅が谷)。ここへ七万騎も落ちたのか…ひー。

日が暮れてあたりが暗くなってから、平家の後ろ、正面、右、左、地獄谷を除くあらゆるところから源氏が攻め上ってくる。平家物語を読んだだけでは、ピンとこなかった地形が、実際にこの場所に立ったことで、ようやく腑に落ちました。

源氏ヶ峰に1人登り、藪の中で、平家物語の文章をブツブツ語りながら、くるっと振り返り、ハッここから、ハッあっちからも、あっちからも、源氏が攻めてくる!ワー……と地獄谷を覗き込んだ時、下のほうから、

「あいさーん、落っこちないでね」

という同行者の声が聞こえてきました。

2日目

白山比咩神社へ車で向かうところなのですが、うっかり車窓を眺めると、あの、頂上部分が平らな山が源氏が峰⁈

昨日は山の上で平家の気分をたっぷり味わいましたが、どうしても源氏がどう動いたかもっと知りたくなって、寄り道寄り道。今度はふもとの方から、源氏軍が攻めていった道筋をたどってみます。うれしい!

ここは松永。

埴生護国八幡宮作成の地図の一部を拡大すると、この地図では右下に位置します。

小耳入、おもしろい地名ですね。倶梨迦羅合戦にちなんだ地名のようです。

この案内板によると、根井小弥太を先導してこのあたりから源氏が峰にむかったのが、地元の武士の蟹谷次郎(かんだのじろう)。

~「よーし、そろそろ源氏が峰にのぼるぞ」「気づかれないようにしろ」なんて、小声でささやきあったのかしら〈妄想中〉~

蟹谷次郎といえば、たしか猿が馬場に向かう途中に碑がありました。義仲を勝利に導いた郷土の武士、蟹谷次郎の功績を顕彰するために建立されたそうです。蟹谷次郎をはじめ、たくさんの地元の武士の協力があって、義仲は倶梨迦羅の合戦に勝つことができたのですね。

1日目に見た、蟹谷次郎由緒之地碑。


小耳入の石碑を左に見ながら、義仲と巴プロジエクトの幟がはためく道をすすんでいきます。

陣貝山。ここで合戦開始の合図のホラ貝(陣貝)を吹いたらしい。

え!膿川!

田んぼの左横を流れるこの川が!

さっきの地図で確かめると、なるほど、この川は地獄谷から流れ出しています。

地名はとても大切なものです。「膿川」という地名からは、凄惨な戦いの結末が今もありありと想像できます。

歴史を振り返るとき、勝者と敗者、善者と悪者、強者と弱者、そんなふうに単純に割り切ることができない思いが、そこここに残っていると感じます。

この地を実際に歩いたことで、戦に臨んだ武士だけではなく、たとえばこの膿川の近くで暮らした農民たちの思いにも、心を寄せて、義仲の物語を語っていきたいと思いました。

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